「母がわらう」を、私がもらう。

なにかを自分が動かすためのヒントは、このことばにある。そんな気がします。

 

  • 「母がわらう」を、私がもらう。

 

あらためてまして、このことばについて。斉藤賢司さんがつくった、TOBU(東武百貨店)の“母の日”に向けたコピーです。

 

ぼくらの日々は、きっとなにかに向かって動いてて、きっとそれは「だれかがわらう」ためなんじゃないだろうか。

「わらうを、もらう」わけだから、それは双方向だし、ちゃんと交換できている。一人よがりの話じゃないですよ。

相手にわらってもらえて、自分もわらいをもらえる。もらえるのってなんだかうれしいから、こっちも思わずわらう。

いや、にやける、が正しいかもしれません。

 

ときどき、思うんです。「だれかがわらう」というイメージができていないうちは、おそらくよい仕事はできないよねって。

「身近なだれか」に対しての配慮がぴっしり欠けていたなら、なおさらというか。

家族なのか、友達なのか、恋人なのか、あるいは同僚か。身近なだれかには、一体だれがいるんだろう。

 

もしも「遠くにいるだれかのわらう」をもらいたいなら、まずは、大切な「近くにいるだれかのわらう」をもらえるように、がんばらないと、だな。できる男になりたいです。

 

いっしょに過ごしていて、母がわらうと、ぼくはうれしくなる。ありがとう、とぼくは言いたくなる。

その気持ちを広げてみる。ちょっとずつ遠くへ、遠くへ。半径5mから、いつかは、半径6,317kへ。

わらうをもらうために、うんと考えてみて、えいやと動いてみて、日々くらしています。